平成20年4月5日
俵山にある、麻羅観音に行きました。

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麻羅観音の由来
天文20年(1551年)9月1日
中国地方の太守 大内義隆公は家臣の陶 晴賢に攻められ、湯本温泉の大寧寺で自刃した。
翌2日、長子の義尊公はこの奥で捕らえられ惨殺された。墓は近習のものと共に上安田にある。
末子の歓寿丸は女装して山中にかくまわれていたが翌年春捕らえられて、ここで殺され、男児の証拠に男根を切られて持ち去られた。
これを里人はあわれんで、この社をたてて霊を慰めた。
ここは子宝に恵まれない人や、健康増強への願を託す参詣者で賑わうそうです。
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噂には聞いていましたが、本当にそっくりなものがたくさん並んでいて、びっくり!!



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長門市 |
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平成19年6月20日(水)

長門市の村田清風記念館に行きました。


村田清風は天明3年(1783)沢江の山荘に生まれ、安政2年(1855)5月26日萩の役宅で逝去しました。
清風は藩主5代につかえ、特に「8万貫の大敵」として藩の財政の建てなおしをした天保の改革は有名です。
その外、明倫館の改革や有備館の設立による青少年の教育、或いは武士の士気を高め万一に備える為の「羽賀台の大調練」を行いました。
このように行き詰った防長の財政を整え、武備を更新し、教育を改革することにより、他藩に先がけて、明治維新の大業を完遂した原動力をつくりました。
この功績にたいして明治24年、正四位が追贈されました。

この屋敷は、萩藩天保の改革に手腕を発揮された村田清風翁の、誕生より歿せられるまでの住宅であります。
宅は、草葦平安建の本屋を中心として、米蔵やうまや倉庫などがあり、途中修築しましたが、当時の原型はそこなわれておりません。清風はここを「三隅山荘」と呼んでおりました。
続き▽
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長門市 |
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青海島シーサイドスクエアに車を止め、、仙崎みすゞ通りを歩いてみました。
仙崎駅の前のみすゞ通りの説明板です。

通りを歩いて行くと各家の軒下に、金子みすゞさんの誌がかけられています。

かわいいですね!
もっと歩いていくと、金子みすゞ記念館があります。

入り口は、昔の本屋のイメージそのものです。

二階には、金子みすゞさんの部屋も再現されています。外から差し込む光がレトロな雰囲気をましています。

通りのレトロな、感じの家です。

うのや商店

残念なことに、みすゞ通りにはレトロな雰囲気はあまりのこっていません。残念です。
しかし、ちょっと横道にそれるとそれなりの雰囲気がのこっていましす。

海辺を歩くと、どこでも魚釣りの人でいっぱいでした。
こんど来るときは釣竿が必需品のようです。
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長門市 |
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